みなさんこんにちは!
今日のアノコモなうは、アノコモスタッフのコンドウがお届けします。

私の住んでいる岡崎市根石学区は、幼稚園から高校、短大、大学とありまして、今や文教の街として発展をしているのですが、史跡の多い古い街でもあります。

今回はその史跡のひとつ、徳川家康公の悲しい裏話をご紹介しますね。
歴史好きな人もそうでない人も、読んだら少しは歴史ツウになれるかも?ですよ。

築山御前(つきやまごぜん)の首塚

根石小学校の南側、少し下がった所にある八柱神社の境内に立派に祀られています。



ところで『築山御前』って誰のこと?
『首塚』って?
しょ、処刑されたの? 
と疑問を持たれる方もきっといらっしゃる事でしょう。

築山御前について諸説いろいろありますが、コンドウ流に簡単にまとめてみました。
興味のある方、お時間のある方はお付き合いくださいね。


築山御前の悲しい物語



今川義元の姪にあたる瀬名姫は徳川家康の正室となり、後に築山御前と呼ばれるようになりました。築山御前とは家康の奥様のことなのです。家康との間には信康と亀姫の二人の子供にめぐまれ、長男の信康は武勇に優れた武将となりました。

1560年の桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に敗れ、今川の勢力が弱くなると家康は今川を離れ信長と同盟を結びました。そして家康は岡崎を離れ浜松城主になったのですが、今川出身の築山御前を岡崎に残したままでした。
ここから彼女の悲しく不幸な人生が始まったのです。

その後、長男の信康は織田信長の娘、徳姫を正室に迎えて岡崎城主となり、築山御前との同居生活が始まりました。はたして築山御前(今川家)と徳姫(織田家)との関係は上手くいったと思いますか?
残念ですがお察しの通りです。

それは、それは嫁、姑の関係以上にこじれてその上、徳姫は夫である信康とも不仲となり、三人の関係は非常に険悪となりました。築山御前は当時敵対していた武田信玄の息子の勝頼と反逆をたくらんでいたという説もあるくらいです。

何だか不吉な予感がしてきませんか? ドキドキしてきますよね。

徳姫は父(織田信長)に築山御前と信康の罪を訴える12か条の訴状を送りました。要するに夫婦仲が悪くなってしまったこと、武田と内通しているのではないか、などと書かれた密告の手紙を送ってしまったのです。
かねてより信長はたくさんの武勲を挙げていた信康をとても恐れていて、これをチャンスとばかりに家康に信康の切腹を要求したのです。

信長からの理不尽な仕打ちに対し、築山御前は助命嘆願の為に家康の居城である浜松城に向かいました。しかし、途中の浜松市佐鳴湖岸にて家康の家臣によって殺害されてしまいました。享年39歳でした。

『遺骸』は浜松市の西来院に葬られましたが、『首』は岡崎に返され八柱神社で祀られています。


奇遇にビックリ

戦国時代の宿命とは言え、直接手をくだした訳ではないですが、夫で後の天下の覇者となる徳川家康に殺されたとは、とても悲しい運命ですね。

そして命日は旧暦の8月29日、これを新暦に直すと9月19日となりまして
なんと!コンドウの誕生日と一致したのであります・・・奇遇にビックリ仰天!

このように築山御前を皆さんにご紹介させていただくにあたり、改めて学ばせて頂けた事への感謝の気持ちと、そして御霊の供養の為に浜松市の西来院を訪ねてみることにしました。

『首』と『遺骸』をつなぐ『墓参プロジェクト』。
次回の「アノコモなう」にて報告させて頂く予定です。 
お楽しみにしていて下さいね♪


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